武田信玄が残した“甲州金”は本当に眠っているのか――?
山梨県には、河口湖・本栖湖の湖底ロマンから青木ヶ原樹海の軍用金、そして実際に出土した上岩崎の埋蔵金まで、「黄金伝説」が密集しています。戦国最強の名将が掌握した黒川金山・湯之奥金山のリアルな採掘史、金貨「甲州金」の鋳造技術、河口湖の“鵜の島”に沈む財宝の座標、樹海に刻まれた石塁と壺いっぱいの小判などなど、最新の考古学調査とトレジャーハンターの証言を総ざらいし、伝説を“検証モード”で読み解くのが本記事です。
1|武田信玄と甲州金――伝説の根拠は本物の“金の力”にあり
戦国の名将・武田信玄が「甲斐の虎」と恐れられた背景には、単なる軍事的巧妙さだけでなく、領内に眠る金をいかに掘り出し、いかに活かしたかという“金融戦略”がありました。信玄は黒川・湯之奥・金山(かなやま)といった甲斐国屈指の金山を直轄支配し、そこから産出する甲州金を領国経営の軸に据えます。
金山と金山衆
中でも黒川金山は深い坑道と選鉱施設を備えた一大生産拠点で、湯之奥金山は毛無山中腹に広がる日本最古級の山岳金山として知られます。信玄はこれらの山を束ねる「金山奉行」を置き、さらには鉱山技術者・武装護衛・運搬役から成る金山衆を編成しました。史料と発掘調査によれば、最盛期の産金量は年間三〜四百キロに達したと推定されます。これは米に換算すると二千石を超える価値で、当時の中規模大名の年貢収入に匹敵する規模でした。
甲州金の姿と役割
こうして得られた黄金は、「蛭藻(ひるも)金」や「碁石金」と呼ばれる刻印のない粒状・楕円状の小片に加工されます。ほぼ二四金に近い高い純度が確認されており、重量さえ量れば価値が即座に分かる“秤量貨幣”として領内の取引に流通しました。軽く、かさばらず、しかも高品位——携行性に優れる甲州金は、軍勢を遠征させる際の兵糧調達や鉄砲・甲冑の現地購買に威力を発揮します。また、同盟相手や敵方家臣の懐柔といった外交工作にもそのまま「現金の贈与」として用いられ、信玄の対外戦略を下支えしました。
考古学が示す実在性
この“金の力”が単なる伝説ではないことは、1971年に甲州市勝沼町上岩崎のぶどう園から発見された一括埋蔵で裏づけられます。蛭藻金2枚・碁石金18枚と、中国やベトナムの銅銭約五千枚がまとまって出土し、蛭藻金からは江戸期の色付け技法の先駆とみられる高品位の表面処理が確認されました。XRF分析では金含有率が九五〜九八パーセント、打刻痕や寸法は武田期のものと符合します。出土地点近隣には武田一族・勝沼氏の館跡があり、軍用金を秘蔵した可能性はきわめて高いとみられます。
金が紡いだ武田家の強さ
こうして見ると、信玄の強さは戦術面よりもむしろ「金を生み、金を動かす仕組み」を掌握した点にこそありました。甲州金は領国内の市場を活性化し、常備軍の維持費をまかない、遠征先での即時決済を可能にし、外交の切り札にもなる——いわば黄金インフラでした。坑道跡や鋳造痕、そして実際に掘り出された金貨は、武田伝説をただのロマンにとどめず、実証的な歴史の舞台へと押し上げています。甲斐の山懐に残る鉱山遺構と埋蔵金は、今なお「戦国金融革命」の痕跡を静かに物語り続けているのです。
2|湖底ロマン:河口湖&本栖湖に沈んだ黄金

武田家滅亡のドラマは、甲斐の金銀財宝をめぐる “湖底ロマン” へと姿を変えました。舞台は富士北麓の二大湖。河口湖 と 本栖湖。いずれも水深 100 m 超のカルデラ湖で、周囲には武田支配下の金山から甲州金が搬出された実在ルートが重なります。
河口湖伝説|穴山梅雪の“金舟”
- 時期: 天正10年(1582)3月
- ストーリー:
- 武田信玄の甥・穴山梅雪が黒川・湯之奥などの金山から金塊を搬出
- 河口湖畔に集積後、鵜の島南東・水深約120 m の最深部へ木箱ごと沈めた
- 推定埋蔵量: 甲州金 約3,000両+砂金数百貫
- 史料: 地元口碑/『甲斐国志』/江戸期の潜水捜索記録
本栖湖伝説|勝頼最後の軍資金
- 時期: 同年 4 月
- ストーリー(2 系統)
- 本栖城へ向かう途中、突風で“金舟”転覆 → 湖底沈没
- 追手を欺くため家臣が意図的に金箱を投棄
- 推定埋蔵品: 甲州金・蛭藻金・軍旗・甲冑ほか
- ポイント: “瀬々の窪”〜中央最深部(最深 138 m)
考古学と科学調査の現在地
年代 | 湖 | 手法 | 結果 |
---|---|---|---|
1998 | 河口湖 | 東大海洋研:側掃ソナー/磁気計測 | 大型金属反応なし |
2009 | 本栖湖 | 山梨県立博:ROV(無人潜水艇) | 堆積層厚く探査困難 |
2021 | 河口湖 | 民間ドローン潜水 | 木箱状構造物を撮影※未回収 |
“湖に沈めた”は合理的だったのか?
- 火山性地質で 横穴掘削が不向き
- 霧と急深地形が“天然の金庫”を形成
- 引き揚げコストが極端に高い → 隠匿策として理に適う
ロマンとリスクの温度差
- 観光船クルーズでは“埋蔵金ポイント”のアナウンスが名物
- 無許可潜水・磁気探査の違法行為が後を絶たず、山梨県は文化財保護条例で 水中遺物の無断採取を禁止
まとめ
- 河口湖=穴山梅雪、本栖湖=武田勝頼 という歴史的結節点で伝説が形成
- 湖底は急深・堆積厚で捜索コストが高騰し、発見例は未だゼロ
- 最新テクノロジー導入は進むが、考古学的検証と文化財法のハードルが課題
碧い湖面の下に眠るかもしれない黄金──その正体は、信玄亡き後も武田家を支えた“最後の戦費”なのか。科学とロマンが交錯する湖底伝説 の行方に、今日も研究者とトレジャーハンターが夢を託しています。
3|青木ヶ原樹海 “軍用金”の座標を追え
富士山麓の西側に広がる青木ヶ原樹海――一歩踏み込めば火山のうねりがつくった溶岩洞と倒木が迷路のように連なる、まさに“天然の金庫”だ。ここには 「武田信玄の軍用金が洞穴に隠されている」 という埋蔵金伝説が残り、明治以降たびたび探索が試みられてきた。近年は学術調査とトレジャーハンティングの境界が融けつつあり、最新テクノロジーを携えた探査チームが座標の特定に挑んでいる。
伝説の核心――石塁と洞穴
樹海の北縁、富士ヶ嶺から大室山へ至る尾根筋には、幅2~3メートル・延長約2キロメートルにわたる 溶岩石塁 が確認できる。地元では「武田の御前立て」とも呼ばれ、武田氏が北条・今川連合軍の侵入を防ぐために構築したと伝えられる。埋蔵金伝説は、この防衛ラインの背後に位置する大小の溶岩洞穴に軍用金を封じたという筋立てで語られてきた。
実際に 1980 年代の静岡大学地質学調査では、石塁直下で人為的に拡張された形跡を持つ空洞が複数見つかった。洞床の堆積物を年代測定すると 16 世紀半ば~後半の火山灰層が撹乱されており、「戦国期に何らかの掘削が行われた」可能性を示唆している。
座標絞り込み――三つの鍵
近年の調査は、旧来の「地図と勘」に頼る方法から、地球科学とリモートセンシングを組み合わせた エビデンスドリブン探索 へと進化した。トレジャーハンターと考古学者が共有している“座標絞り込みの鍵”は次の三つだ。
- 磁気異常マッピング 金属量の多い区域では溶岩由来の弱磁性とのコントラストが生まれる。地表 2 メートル下までの磁気異常データをドローン搭載センサーで取得すると、石塁背後に長さ 40m ほどの帯状高磁区が現れた。人為的な金属貯蔵か、火山性鉄鉱石か――判断は今後のボーリングに委ねられる。
- LiDAR(航空レーザー測量) 密林を貫通するレーザーパルスで地表面を抽出すると、石塁と並走してわずかに窪む “うねり” が浮かび上がる。幅 10m・深さ 0.5m の線状地形は自然の段差とは異質で、荷車か輜重隊の通路跡と推定されている。
- 洞穴内部の 3D スキャン 東京工業大学のチームはポイントクラウドカメラを携行し、これまでに 30 か所以上の溶岩洞をミリ単位で測量。洞壁に残るタガネ痕、床面の堆積段差を分析すると、全長 18m の無名洞だけが「人の背丈より高く掘り下げられた側坑」を持ち、床面には直径 30cm の円筒状の掘り残しが確認できた。土砂を除去すると、青磁片とともに錆びた鉄製鉱石鍋が出土し、金砂の精錬現場であった可能性を示している。
探索最前線――2025 年度計画
2025 年夏、地元自治体と民間探査会社が共同で 「富士西麓歴史資源サーベイ」 を実施する予定だ。計画によれば、
- 7 月:磁気異常帯の中心部 3 点で深度 4m の試錐コアを採取
- 8 月:無名洞を含む 5 洞穴で地中レーダーによる側壁透過探査
- 10 月:異常反応地点で文化財保護法に基づく発掘確認調査を申請
成果は翌春に報告書として公開される見込みで、武田軍用金伝説に学術的決着がつくか注目される。
ロマンとリスクのはざまで
樹海は国立公園第二種特別地域に指定され、無許可での掘削や樹木伐採は罰則の対象となる。また洞穴内部は二酸化炭素濃度が高く酸欠事故の危険がある。近年メディアで煽られる“お宝ブーム”の陰で、無断掘削による洞壁崩落・希少コウモリの生息地破壊が相次いでいる。探索は必ず学識経験者と行政の指導の下で行う――これが樹海ロマンを未来へ継承する最低条件だ。
樹海が秘める「もしも」
もし石塁背後の洞穴から甲州金が発見されれば、戦国期の軍事物流と財政運用を語る一級史料となる。逆に見つからなかったとしても、溶岩洞の掘削痕や鉱石鍋は「武田氏が樹海を背後兵站基地として利用した」事実を補強する。軍用金の座標 を追う旅は、財宝そのものよりも、戦国サバイバルのリアルを掘り起こす学術価値を秘めている。静寂の森が語る真実に、私たちはいま、あと数メートルで手が届くところまで近づいているのかもしれない。
4|伝説を実証に変えた“上岩崎埋蔵金”発見
1971 年 4 月…。山梨県勝沼町上岩崎のぶどう園で、地主が深耕のため直径 1 メートルほどの穴を掘っていたとき、堆土の中から金色に光る小判状の金塊と大量の古銭が姿を現しました。これがのちに「上岩崎埋蔵金」と呼ばれる考古学的大発見の幕開けです。
発見された財宝の内訳
種類 | 点数 | 特徴 |
---|---|---|
蛭藻金(ひるもきん) | 2 点 | 長径約 50 mm の小判型。表面にわずかな打刻痕があり、純度は 94〜96 %。武田氏直轄工房で鋳造されたと推定。 |
碁石金(ごいしきん) | 18 点 | 直径 20 mm 前後、厚さ 5 mm。碁石のような円盤状で純度 93 %前後。 |
中国・朝鮮・ベトナム銅銭 | 約 6,000 枚 | 開元通寶(621 年)から宣徳通寶(1433 年)まで 49 種類。縄で束ねた緡銭状態だった痕跡が残る。 |
※ 出土後に銭貨を洗浄・整理した結果、総重量は金貨 460 g、銅銭 34 kg に達した。
つまびらかな調査と科学分析
発見翌年、山梨県教育委員会と山梨県立博物館が共同で詳細調査を実施。さらに 2000 年代には XRF(蛍光 X 線)、SEM-EDX による元素分析が行われ、蛭藻金 2 点から**江戸期の表面処理技法「色付け」**が確認されました。これは金-銀合金表層の銀を薬液で除き、見かけの純度を高める方法で、甲州金の高度な製錬技術を裏付ける成果となりました。
伝説から実証へ――三つの検証ポイント
- 地理的符合 発掘地点は勝沼氏館跡から約 300 m。勝頼期に軍用金を管理したとされる一族の本拠に極めて近い。
- 年代の整合性 銭貨は 15 世紀中葉以降が含まれず、武田氏滅亡前後(16 世紀末)の埋納を示唆。伝承される戦時埋蔵のタイムラインと一致する。
- 金品位の高さ 純度 94 %超の甲州金は、文献に記される「武田領内産出・良質砂金を原料とした私鋳金貨」の数値と符合。
これら三点が、武田信玄の埋蔵金伝説に実証的裏付けを与えた決定打となりました。
現在の保存状況と評価額
出土一式は 2011 年に山梨県立博物館が総額約 1 億円で取得し、同館の常設展示「甲州金と武田の財政」でローテーション公開中。市場換算では蛭藻金 1 枚=推定 500 万円、碁石金 1 枚=同 300 万円超とされ、学術的・経済的価値ともに国内屈指の“リアル武田財宝”になっています。
なぜ地中に?――三つのシナリオ
- 戦禍からの避難 1582 年の甲州征伐直前、勝沼氏が館にあった軍資金を一時隠匿。
- 勝頼への送金ルート遮断 信長軍の急襲で輸送が困難となり、やむなく近在で埋納。
- 鉱山衆の私的蓄財 金山採掘に従事した金山衆が、脱出用資金として密かに埋めた。
確定的史料はまだないものの、周辺で金熔融土器や製錬滓が見つかっている事実から「館直轄の金庫」説が有力です。
意義――“伝説”を“歴史”へ
上岩崎埋蔵金の発見により、
- 甲州金鋳造と流通の実態
- 武田氏の軍事財政のリアリティ
- 甲府盆地における金山‐城館ネットワーク
が一次資料によって補強されました。ロマンを超えて史実を語る鍵――それが、この小さな金塊と 6,000 枚の銅銭がもたらした最大の価値なのです。
7|まとめ――“黄金伝説”は終わらない

武田信玄が築いた甲州金の実像、河口湖・本栖湖に沈むといわれる湖底財宝、青木ヶ原樹海に隠された軍用金、そして 1971 年に上岩崎で実際に発見された金貨。山梨に残る「黄金伝説」は、ロマンだけでなく確かな史実と考古学的証拠に裏打ちされた壮大な物語です。
戦国の金山経営が生んだ莫大な富は、武田家滅亡の動乱で各地に散在し、湖や樹海、城館跡の地下へと姿を隠しました。その行方を追う過程で、私たちは金属分析や発掘調査によって中世の貨幣流通や鉱山技術、軍事財政のリアリティに迫り、同時に今なお伝承が息づく地域文化にも光を当てています。
今日、湯之奥金山博物館の砂金採り体験や、甲州金を展示する山梨県立博物館、樹海トレッキングツアーなど、黄金伝説は観光と学びのフィールドへと舞台を広げました。ドローン測量や地下レーダー探査、AI を用いた地形解析といった最新技術も導入されつつあり、未知の宝を検証へと導く“現代の金山衆”が活動を続けています。
黄金伝説が示す 5 つのメッセージ
- 歴史の裏付け ― 伝説の多くは金山遺跡・金貨出土・文献史料で検証可能な「事実の影」。
- 考古学の魅力 ― 上岩崎埋蔵金のように、偶然の発見が学界の定説を更新する。
- 地域アイデンティティ ― 金山と埋蔵金は山梨のブランド資源。住民参加型の発掘やイベントが地域を活性化。
- 科学とロマンの両立 ― 伝説を鵜呑みにせず、データドリブンで挑むからこそ真のドラマが生まれる。
- 次世代への継承 ― 砂金採り体験やデジタルアーカイブで、“金の歴史”を子どもたちへつなぐ責務。
埋蔵金が今後どれだけ発見されるかは誰にもわかりません。しかし、湯之奥の山奥で鳴り響くつるはしの音も、勝沼の畑で偶然煌めいた金塊も、湖底に沈むと囁かれる武田財宝も、人々の想像力をかき立て、歴史研究と地域づくりを前へ動かす“金の力”であることに変わりはありません。
黄金伝説は終わらない。
科学が物語を裏付け、物語が次の探求心を呼び覚ます限り、山梨の大地はこれからも輝きを秘め続けるでしょう。