首里城、かつて琉球王国の政治、外交、文化の中心地として栄え、その後の沖縄戦で焼失し、復帰後の1992年に国営公園として復元された歴史ある建築物。その独特の建築様式は中国と日本の築城文化を融合したもので、2000年には世界遺産にも登録されました。しかし、2019年10月31日の惨劇は再び首里城を灰に変えました。正殿付近から出火し、北殿、南殿などに延焼した火災により、6棟がほぼ全焼し、その壮大な姿は失われました。首里城の焼失は、世界的な文化遺産の失落という点で、その重大性が問われる出来事でした。
しかし、その火災とともに一段と注目を浴びるようになったのが、城地下に眠る戦時遺構、第32軍司令部壕(Command Post Bunker of the 32nd Army)であります。第32軍司令部壕は、沖縄戦における日本軍の指導機関であり、その存在は歴史的に重要な価値を持っています。壕の全長は1,000メートル以上にも及び、各所に坑口が設けられていましたが、現在確認できるのは一部のみで、詳細な調査が行われていません。
首里城の復元計画と並行して、この第32軍司令部壕の調査と保存が進められています。先頃行われた首里城復興推進本部会議では、「第1坑口」および「第5坑口」の保存公開に向けた取り組みを進めることが決定されました。焼失した首里城の復元に合わせて2026年度の公開を目指すこのプロジェクトは、歴史の探求と共有のための重要な一歩と言えるでしょう。今後の調査で、より多くの情報が明らかにされ、私たちの歴史理解に深みをもたらすことを期待します。
第32軍司令部壕

首里城地下に広がる第32軍司令部壕は、太平洋戦争末期に日本軍が構築した戦略的拠点であり、その巨大さと複雑な構造が、当時の戦況と壮絶な人間ドラマを現代に伝えています。約300の部屋と施設から成り、壕内部には作戦室から応急手術室までが含まれ、戦争の過酷さと人間の生きる力を示しています。遺構の一部は公開され、教育や観光、そして平和への祈りの場として多くの人々に利用されています。この壕は、歴史の証としてその価値を現代に伝え、戦争の惨禍を忘れさせず、平和への教訓を次世代に継承する役割を果たしています。
第32軍司令部壕の概観と地理的位置
第32軍司令部壕は、沖縄県那覇市首里に位置する歴史的な地下構造です。この壕は、第二次世界大戦中に日本陸軍の指令で建設され、1945年まで使用されました。地盤の琉球石灰岩や第3紀泥岩(クチャ)を掘り込んで造られたこの壕は、崩落の危険性が高く、現在では鉄骨やコンクリートによる補強が施されています。地理的には、国営沖縄記念公園首里城地区(通称・首里城公園)及びその周辺に広がっています。
第32軍司令部壕の歴史的背景
1944年11月9日、第32軍司令部は津嘉山司令部壕の構築延期を決定し、翌12月3日には司令部の位置を首里に変更しました。これに続いて1945年1月中旬に、幕僚や管理部が使用できる段階まで構築することが命じられました。1944年12月から1945年3月にかけて、軍関係者や学校生徒等が動員され、壕の建設作業が行われました。1945年3月24日、第32軍参謀長長勇は司令部壕の壕口に「天ノ巌戸戦斗司令所」と書かれた木札を掲げ、この日以降の第32軍司令部の命令文ではこの名称が使用されました。
第32軍司令部壕の内部配置

1945年4月9日時点での配置は、第1坑口、第2坑口、第3坑口付近に衛兵や警備中隊、機関銃中隊などの守備部隊が配置されていました。さらにその南側の中央部には司令官、作戦参謀、電報班、電波警戒隊などの司令部中枢や情報関係部隊が配置され、さらに南側には軍医部、患者収容室、寝室が配置されていました。そして、第4、第5坑口付近には野戦築城隊、管理部、炊事室等が配置されていました。
戦況と内部配置の変化

1945年4月後半から、戦況の変化に伴い、第24師団司令部や独立混成第44旅団の司令部、海軍沖縄方面根拠地隊司令部等が順次移動し、首里司令部壕内の配置が著しく変動しました。同時期には、沖縄県職員主体で新たな坑道の増設作業が行われました。
壕内の生活と規律
壕内では、約1,000人の将兵の他にも、沖縄出身の良家の子女や内地から渡来した芸者、辻町の遊女が軍作業の手伝いを行っていました。また、敬礼の徹底や方言の使用禁止といった規律が行われていました。所属や階級によって使用する出入口や浴場の使用時間などが細かく決められ、壕内は一大地下ホテルのような状態で運用されていました。
終戦とその後

終戦後、第32軍司令部壕は保存・公開の対象となりました。その後の地盤の崩落により壕は一部が倒壊し、近年には補強工事が行われています。今日では、その壮大な構造と歴史的背景から観光地として多くの人々に訪れられています。壕の内部は、当初はその広大さと複雑さから遺構の全体像を把握することが難しかった。しかし、1946年から始まった地域住民による清掃活動や1948年の第32軍司令部壕調査団による調査を通じて、壕の全体像が明らかになっていきました。これらの努力により、1949年には一部が一般公開されることとなりました。
参考文献 沖縄県立埋蔵文化財センター 2015 『沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書75:沖縄県の戦争遺跡』沖縄県立埋蔵文化財センター 沖縄県立埋蔵文化財センター 2017 『沖縄県の戦争遺跡:沖縄県の戦争遺跡』沖縄県立埋蔵文化財センター 沖縄県立埋蔵文化財センター 2019 『沖縄県の戦争遺跡 :生徒・学生と共に学ぶ』沖縄県立埋蔵文化財センター
第32軍司令部壕の遺構

第32軍司令部壕の遺構は、その総延長が1,000m以上とされる壮大な地下構造体で、当初は北側に第1~第3坑口(Entrance 1-3)、南側に第4、第5坑口(Entrance 4, 5)と、そして垂直坑口(Vertical Entrance)を含む計6つの壕口が存在していました。しかしながら、現在では、第3坑口と第5坑口、そしてそれらから続く一部の坑道のみが確認でき、他の坑口は埋没や崩落により、確認できない状態となっています。
第3坑口は城西小学校の南側に位置しており、その内部は第3紀泥岩(Tertiary Mudstone)を掘り込んで作られています。ここでは掘削痕が確認できる部分もありますが、その一方で、崩落が著しい部分も存在します。また、坑道の形状は複雑で、床から天井の高さも一定していない部分が見受けられます。この坑道内部には明瞭な部屋状の遺構は確認できず、床面は所々ぬかるんでおり、一部は水没しています。崩落防止のため、近年に設置された鉄骨が組まれている部分があり、その脇にはビール瓶や薬瓶が並べて置かれていたことも特徴的です。
一方、第5坑口は首里金城町にある沖縄県立芸術大学の南側崖下に位置し、内部は前半部が琉球石灰岩(Ryukyu Limestone)、後半部が再び第3紀泥岩を掘り込んで構築されています。北側へほぼ直線状に約150m伸びてから上部が傾斜し、最奥部は崩落しています。入口付近の西側壁面には約10m続く通路状の遺構があり、さらにその奥側の東側壁面には部屋状の遺構が2か所構築されています。これらの部屋内には機械類や銃器類、ガラス瓶などの遺物が並べて置かれています。
全体的に壁面の崩落が激しく、近年鉄骨などで補強した部分があります。特に、琉球石灰岩と第3紀泥岩の境目に当たる区間は、崩落防止のためにコンクリートで補強されています。さらに、第5坑口脇にはかつて壕内に設置されていたとされるレールの部材が1か所に集められています。
この壕は、沖縄戦における最高指導機関である第32軍司令部が最もその構築に力を注ぎ、米軍上陸直前から南部撤退まで使用していたとされています。