2023年、イエメン北東部のマアリブで「マリブ:古代サバ王国の代表的遺跡群」がユネスコ世界文化遺産に新規登録され、古代南アラビア文明の壮大な痕跡が再び注目を浴びています。紀元前8世紀から紀元630年まで栄えたサバ王国は、幅約680メートル・高さ約16メートルの古代ダム「マアリブ・ダム」をはじめとする高度な灌漑技術と、アワム神殿やバラン神殿に象徴される宗教建築で知られ、東西を結ぶ香料交易ルートの要衝として繁栄してきました。しかし、2015年以降のイエメン内戦により遺跡群は空爆や略奪の危機にさらされ、現在は「危機遺産」として国際的な保護活動が急務となっています。本記事では、古代サバ王国の歴史と建築技術、交易ネットワークの中心地としての役割を振り返るとともに、戦禍に揺れる現状と保存への取り組みを詳しく解説します。

1. 古代サバ王国の歴史的展開と地政学的重要性

Awām Temple - Colums © Nomination Team of the Landmarks of the Ancient Kingdom of Saba in Marib Governorate
Awām Temple – Colums © Nomination Team of the Landmarks of the Ancient Kingdom of Saba in Marib Governorate

古代サバ王国(Saba)は、紀元前8世紀頃から紀元630年頃まで、アラビア半島南西部、現在のイエメン北東部を中心に栄えた強大な国家でした。王国の心臓部であるマアリブ盆地は、標高約1,000~1,200メートルの高原地帯で、年間降水量はおよそ200~300ミリ程度とされる半乾燥気候でした。盆地を囲む山々は適度に雨雲を呼び込み、周辺のワジ(枯れ川)へ雨水をもたらす一方で、洪水と干ばつが繰り返される過酷な環境でもありました。そこに築かれた初期の灌漑施設――いわゆる「マアリブ第一ダム」は、高さ数メートル、長さ数百メートルほどの小規模ながらも効果的な構造物でした。これをきっかけにマアリブ盆地周辺では安定した農耕が可能となり、小規模な集落が徐々に都市化する素地が整えられたのです。

紀元前7世紀頃になると、マアリブ盆地の豊かな農業生産を背景に、複数の有力なムカルリブ(地方豪族)が勢力を伸ばし、やがて一人の指導者が周辺部族を束ねてサバ王国としての体制を築き上げました。初期のムカルリブには「Karib’il Watar」などが知られており、彼らは神殿への奉納や灌漑施設の建設を通じて、自らを神聖視する神権政治を確立していきます。とくに、北西部に建立されたアワム神殿やバラン神殿は、王権と宗教が不可分に結びつく象徴的な場所となり、メソポタミアや地中海世界からの影響を受けながらも、サバ独自の宗教文化が成熟していきました。

並行して、紀元前7〜5世紀にかけて「マアリブ第二ダム」と呼ばれる大規模なアースダムが完成します。堤長約680メートル、高さ約16メートルという当時としては驚異的な規模を誇ったこの土堰は、季節的に流入するワジ・ダナの洪水を効率よく貯え、分水堰や水路網によって盆地一帯の農地へ水を配分する仕組みを確立しました。碑文資料によれば、王ヤダイル・ユフカルは「四方の畑地に水を巡らせ、人民を養った」と自らの功績を誇示し、国の繁栄を神殿に奉納する様子を記録しています。このように農業基盤が盤石になることで、サバ王国は最大で人口50万人規模を支え、王権は安定した権威を確立しました。

やがて、紀元前4世紀を迎えるとサバ王国は経済的にさらに飛躍します。乳香(Frankincense)や没薬(Myrrh)といった香料の交易ネットワークを拡大し、南アラビアで生産された高品質の樹脂は東西の市場へ送り出されました。インド洋を経由してインド西岸へ運ばれる海上交易と、シリアやエジプトを結ぶ陸路のキャラバン道が交わる要衝として、マアリブはまさに古代世界の中心的なハブとなります。ローマ帝国の皇帝アウグストゥス(紀元前27年~紀元14年)の時代には、ローマ側から使者アイリウス・ガッルスがマアリブを訪れたという記録が残されており、遠征は過酷な砂漠気候や地元部族の抵抗により失敗に終わったものの、その一報は「サバの地は香料と富にあふれる難攻不落の地」としてローマ世界に伝わったのです。以降、ローマやエジプト、さらにはエチオピア・アクスム王国との交易ルートが公式・非公式を問わず頻繁に往来し、サバの文化圏にはメソポタミアの天文知識やエジプトの建築技術、インドや東アフリカの美術様式が取り込まれていきました。

しかし、紀元後3世紀以降、サバ王国は次第に内部の亀裂や外部勢力の圧力によって衰退への道をたどります。ひとつには、王権と結びついていた有力部族間の抗争が激化し、マアリブ盆地内外で小規模な反乱が相次ぎました。また、南アラビア西部ではヒムヤル王国が勢力を拡大し、香料交易ルートの要衝となる海岸都市を掌握することで、サバを経由しない海上ルートが確立されたのです。これに加えて、降雨量の減少をともなう気候変動が4〜5世紀にかけて深刻化し、既存の灌漑インフラが修復されず放置された結果、農業生産力は徐々に低下していきました。

宗教面では、従来の土着信仰(主神アルマカ崇拝)に加え、キリスト教やユダヤ教、さらにはゾロアスター教など異なる宗教的影響が混在するようになり、信仰の多様化が王権統制を困難にしました。最終的には、7世紀初頭にメッカを拠点とするイスラム教が台頭し、ヒムヤルを含めた南アラビア諸王国は次々に征服されていきます。こうしてサバ王国は約千数百年にわたる歴史の幕を閉じることとなりました。

それでも、サバ王国が遺した灌漑技術や石造建築、南アラビア文字を用いた碑文群は、後世の中東・イスラム世界に多大な影響を与え続けました。とくにマアリブ第二ダムをはじめとする水利システムは、後のイスラム時代における灌漑技術の原型として評価され、北アフリカやペルシア湾沿岸の農業開発にも応用されました。また、サバ文字はアラビア文字の前身として言語学的に重要な位置を占め、碑文からは当時の政治・宗教・経済・社会生活を知る貴重な一次資料が数多く発見されています。こうした技術・文化の継承と交流は、サバ王国が単なる古代国家にとどまらず、地中海世界からインド洋沿岸に至る広域文明の一翼を担っていたことを物語っているのです。

総じて、古代サバ王国は「高度な灌漑技術によるオアシス文明」「香料交易を媒介とした国際的ハブ」「神権政治と宗教建築による中央集権国家」という三つの柱を備えることで、アラビア半島南部における地政学的要衝として揺るぎない地位を築きました。次章以降では、この基盤をもとに具体的な遺跡群の詳細や建築技術、そして現代における保護の課題についてさらに掘り下げていきます。

2. 世界文化遺産の構成遺跡の詳細分析

編集:地球の歩き方編集室, 監修:NPO法人世界遺産アカデミー/世界遺産検定事務局
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世界文化遺産「マアリブ:古代サバ王国の代表的遺跡群」は、合計七つの考古学的遺跡から成る連続遺産です。これらはいずれも、サバ王国の政治的・宗教的・技術的中心として多面的な価値を物語っています。本節では、とくに代表的な四つの要素――マアリブ旧市街(マアリブ旧市街遺跡)、アワム神殿、バラン神殿、そしてマアリブ・ダムシステムを中心に、その構造や出土状況、歴史的意義を詳しく見ていきます。なお、同遺産群には、ほかにもシルワ(Sirwah)の都市遺跡や近隣の小規模な聖域・居住跡が含まれますが、まずは主要四遺跡に焦点を絞りながら全体像を把握していきましょう。

2.1 マアリブ旧市街(旧市街遺跡)

マアリブ旧市街は、サバ王国の首都として最も繁栄を極めた都市遺跡です。現在の新市街から約2キロメートル南に位置するこのエリアでは、20世紀初頭まで実際に人々が暮らしており、古代から中世にかけての居住層が重層的に堆積しています。旧市街の中心部には、かつて王宮をはじめとする行政施設や宮廷官僚の邸宅が建ち並び、周囲には石造の住宅や墓域が広がっていました。近年の発掘調査で明らかになったのは、マアリブ旧市街が整然とした街区プランを持ち、防衛を兼ねた市壁によって囲まれていたということです。

市壁は全長約2キロメートルにわたって築かれ、複数の門や塔を備えた城壁システムとして機能しました。外部からの攻撃に備えつつ、内部では中央集権的な行政運営が行われていた様子が、城壁の内部に刻まれた碑文や出土した王の奉献品から読み取れます。なかでも、神殿や宮殿に関連する碑文では「ムカリブ〈王〉が新たに築造した壁」といった文言が見られ、王権が都市防衛や建築事業を通じて自らの権威を誇示していたことがうかがえます。また、旧市街内では石造の下水道や雨水利用施設が検出されており、水利インフラの整備・維持が日常的に行われていたことを示しています。

旧市街の東側には市場(スーク)区域が広がり、青銅器や陶器、宝飾品を扱う職人たちの作業場跡が確認されました。これら地域は農産物や香料の交易で得た富を背景に発展したと考えられ、近隣のインド洋・紅海沿岸の港湾都市やメソポタミア、さらにはローマ世界といった遠隔地との交易ネットワークがここに集中していた様子がうかがえます。石畳の路地や簡易な倉庫跡からは、日常生活の息遣いがにじみ出ており、その繁栄ぶりはまさにサバ王国の中央都市としての威容を伝えています。

2.2 アワム神殿(Awām Temple)

マアリブ旧市街の北西約7キロメートルに立つアワム神殿は、古代サバ王国最大級の宗教建築として知られます。別名「マハラム・ビルキス(Mahram Bilqis)」または「シバの女王の聖域(Temple of the Queen of Sheba)」とも呼ばれ、主神アルマカ(Almaqah、月神)を祀る聖所でした。神殿建築は、およそ紀元前7世紀半ばにムカリブ・ヤダイル・ダリ1世によって基盤が築かれたとされ、その後数世紀をかけて段階的に改築・拡張が繰り返されました。1950年代にアメリカ人類研究財団(Human Relations Area Files)が実施した発掘調査では、青銅像や沐浴施設、アラバスター製の水道管など、儀礼に関わる遺物が多数発見されています。

神殿の遺構は、外周を取り囲む楕円形の城壁と、その内側に配置された巨大な中庭から構成されます。城壁の一辺は東西約59メートル、南北約50メートルに及び、中庭を囲む石壁には約42本の柱が立ち並んでいました。柱の本数や配置は、南アラビア特有の数的象徴主義に基づき、神殿空間全体が宗教的世界観を体現する意匠として設計されていたと考えられています。柱が残る北側外周部には、19×32メートルのペリスタイル・ホール(円柱回廊式のホール)が設けられ、内部には礼拝および神官の居住スペースがあったと推測されます。

中庭中央にある石造祭壇付近からは、神殿の造営や奉献を記した古代南アラビア文字(サバ文字)の碑文が数多く見つかりました。この碑文の一節には「ヤダイル・ユフカル王はこの神殿を拡張し、神アルマカに黄金と犠牲を捧げた」と記されており、王権が宗教儀礼を通じて正統性を高める様子が克明に伝えられています。さらに、清めの儀式に用いられた青銅製水盤や、アラバスター製の水管が示すように、水を媒介にした礼拝行為が神聖視されていたことがわかります。

アワム神殿は、紀元前7世紀以来およそ千年にわたって王権の象徴として機能し、その規模と儀礼的性格はまさにサバ王国の宗教的中心にふさわしいものでした。現在では柱の大半が失われていますが、外周の遺構や碑文を通して、古代の宗教儀礼空間の壮麗さを想像することができます。

2.3 バラン神殿(Barrān Temple)

マアリブから西へ約10キロメートルほどの山麓に位置するバラン神殿は、「ビルキスの玉座(Throne of Bilqis)」とも称され、イエメン最大級のプレ・イスラム期神殿の一つとして知られます。紀元前1千年紀に遡るこの神殿は、サバ王国の主神アルマカに捧げられた礼拝施設であったと同時に、文書収蔵機能を兼ねる「神聖文書センター」の役割も果たしていたと考えられています。1951~1952年にウェンデル・フィリップス(Wendell Phillips)が初の大規模発掘を指揮し、1988年には新たな柱が発見されるなど、その壮大なスケールが再認識されました。

神殿は長方形の平面を基調とし、中央に基壇を置き、その周囲を列柱ホールが取り囲む構造でした。柱は当初12本ほどが確認されていましたが、1988年の調査でさらに8本目の柱が発見され、合計20本近い列柱が神殿の威光を支えていたことがわかりました。列柱ホールの外側には、壁面に刻まれた大小さまざまな碑文が散在し、王の奉納記録や神殿改修の由来、あるいは神託を受けた神官の宣言など、多岐にわたる情報が記録されています。これらの碑文からは、サバ王国が政治・宗教・経済を神権と結びつけた統治体制であったことが生き生きと読み取れます。

発掘時に出土した石棺や大型の壺形建築物の破片は、バラン神殿が単に礼拝の場としてだけでなく、王の遺体安置や神聖文書の保管・管理をも行う複合施設であった可能性を示唆しています。さらに、柱頭部に施された精緻な彫刻や石材の加工技術は、サバ文明が石造建築においても卓越した技術を有していたことを裏付けます。こうした構造的・装飾的な特徴は、同時期のメソポタミア神殿やエジプト神殿とは一線を画す独自性を示しており、数的象徴や宇宙観を踏まえた建築思想が反映されたものと評価されています。

2.4 マアリブ・ダムシステム(Maʾrib Dam)

マアリブ盆地を象徴する「マアリブ・ダム」は、サバ王国の技術的到達点を示す最たる遺構です。紀元前7世紀頃に完成した「マアリブ第二ダム」は、幅約680メートル、高さ約16メートルの巨大なアースフィルダムであり、当時世界最大級の土木構造物といわれました。本体の外面は石板で覆われ、漆喰によって高度に防水加工されていたため、1000年以上もの長期間にわたり機能し続けることができました。

ダムの主目的は貯水というより洪水制御にあり、ワジ・ダナの季節的洪水を的確にせき止めることで、下流に広がる乾燥地帯へ安定的に農業用水を供給しました。堤体から伸びる分水堰は複数の家族農地へとつながり、耕作地はダムによって生み出された人工オアシスの中心として緑豊かな農耕地帯を形成していました。出土文献や地形調査によると、稲や小麦、ナツメヤシ、さらには綿花やぶどうなど多様な作物が栽培され、サバ王国の食糧供給と経済基盤を支えたとされます。

紀元575年、ダムは決壊を迎えたと伝えられています。『クルアーン第34章(Saba 章)』では「水門が壊れた」「サバの民が洪水に呑まれた」といった記述があり、ダム崩壊が王国衰退の一因とされました。この決壊は人為的な修復が行われず、大規模な被害をもたらしたため、その直後からサバ王国は農業基盤を失い、急速に没落していきます。しかし、1986年にアラブ首長国連邦(UAE)の支援で新たなダムが建設され、約1500年ぶりにマアリブ盆地に水利インフラが復活しました。この現代のダム建設プロジェクトは、古代の技術的遺産を再評価し、現代の灌漑事情にも応用し得る貴重な知見を提供しています。

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2.5 その他の構成遺跡:シルワ(Sirwah)など

上述の四遺跡に加え、世界遺産登録対象には以下のような遺構も含まれています。

  • シルワ都市遺跡 マアリブの西方山岳地帯に位置するシルワは、紀元前1世紀頃から次第に重要性を増した都市でした。山岳地帯の防御性を活かし、シルワはサバ王国の「西の要塞」として機能すると同時に、紅海沿岸やエチオピア方面との交易を担う拠点として栄えました。石造の城壁や要塞跡、丘陵頂上に築かれた宮殿跡が発掘されており、マアリブとのネットワーク都市圏を形成していたことがわかります。シルワの碑文には軍事的な言及が多く見られ、王国の防衛において重要な役割を果たしていたと推測されます。
  • 小規模な神殿・聖域 アワム神殿やバラン神殿の他、マアリブ盆地周辺には比較的小規模な聖域跡も散在していました。ラカム(Rakham)地域の神殿跡では、アルマカ以外の土着神を祀る祭壇や供物壺が確認され、王国末期の宗教多元化の様相を示しています。また、ベイト・リヤーン(Beit Rahyan)付近には古い井戸や小さな礼拝所が残り、農民たちの日常信仰をうかがわせる遺物が見つかっています。
  • 石碑・碑文群 七つの主要遺跡のいずれにも、古代南アラビア文字を用いた多種多様な碑文が刻まれています。これらの碑文は王の奉献採録、交易契約、神殿寄進記録、あるいは部族間の同盟調印文などを含み、いずれも社会・政治・宗教の複合的実態を知る重要な史料です。碑文の多くは祭壇裏面や城壁の基部に刻まれ、出土調査を通じて数百点の記録が整理されました。碑文文法からは、古代南アラビア語の語彙や語形変化を追うことができ、言語学的にも貴重な資産となっています。

このように、構成遺跡の詳細を見ていくと、七つの遺跡はいずれもサバ王国の中心機能を支える政治的・宗教的・技術的な役割を担っていたことが明らかになります。マアリブ旧市街では都市計画と防衛、アワム神殿やバラン神殿では宗教儀礼と王権の正当化、マアリブ・ダムでは高度な水利技術が発揮され、シルワでは防衛と交易の中継点としての側面が浮かび上がるのです。これらが一体となって、古代サバ王国の壮大な文明像を今に伝えている。だからこそ「マアリブ:古代サバ王国の代表的遺跡群」は、世界史的にもかけがえのない価値を有する遺産と言えるでしょう。

3. 建築技術と宗教的象徴性

古代サバ王国の遺跡群を訪れると、その壮大な建築構造と緻密な象徴体系に圧倒されます。サバ王国の人々は、乾燥地帯という厳しい環境下にありながら高度な水利工学を実現し、同時に宗教的な宇宙観や数的象徴を建築に反映させることで、王権と信仰を不可分に結びつけた芸術的な空間を生み出しました。本章では、まずマアリブ・ダムをはじめとする水利工学技術の革新について、その構造や運用の工夫を概説します。次に、アワム神殿やバラン神殿に見られる数的象徴や方位設定といった宗教的象徴性が、いかに建築そのものに込められていたかを掘り下げます。

3.1 水利工学技術の革新

マアリブ・ダムは、サバ王国の最も顕著な技術的成果であり、紀元前7世紀頃に完成した第二ダムは当時世界最大級のアースフィルダム(盛り土ダム)でした。堤長約680メートル、高さ16メートルという途方もない規模を誇るこのダムは、ワジ・ダナの季節的な洪水を堰き止めることで、乾燥地帯に安定的な農業用水を供給しました。ダム本体の外面は厚い石板で覆われ、漆喰や石灰モルタルを用いて接合部を防水加工していたことが明らかになっています。この構造により、ダムは1000年以上もの間、洪水制御機能を維持し続けました。

ダムから下流へは複数の分水堰(アバラット)が設置され、そこから延びる石造の運河が盆地東西に広がる農地へと水を運びました。運河は地形の高低差を巧みに利用し、勾配をわずかに保つことで、遠くの畑地にも無駄なく水が届くよう設計されていました。運河の幅は場所によって異なりますが、狭い箇所では幅1メートル程度、広い箇所では幅3~4メートルほどにもなり、水流量に応じて分岐や合流が行われるシステムです。これらの運河網は、まるで自然の谷間を縫うように張り巡らされ、水を効率よく分配しながら、田畑一つひとつに行き渡らせる仕組みを実現していました。

また、ダムの管理・維持には季節的な人手を必要とし、堆積した土砂や石材の撤去、補修用の石板の据え直しなどが定期的に行われていました。王権は、これらの土木工事を「神聖なる行為」として祭祀の一環に位置づけ、神殿への奉納式をともなった修復儀礼を実施しました。碑文には「王は神アルマカに祈りを捧げ、堤体を補修し、田畑に水を巡らせた」という文言が刻まれ、水利工学そのものが宗教儀礼に組み込まれていた様子がうかがえます。こうして、マアリブ・ダムは単なる土木施設にとどまらず、王権と神聖が交錯するシンボルとしての役割をも果たしていたのです。

3.2 宗教建築の象徴体系

サバ王国の宗教建築は、数的象徴主義や宇宙観を巧みに取り入れた設計が特徴であり、アワム神殿やバラン神殿といった大型神殿では、柱の本数や空間の配置、方位設定などに深い宗教的意味が込められていました。

たとえばアワム神殿では、中庭を取り囲む楕円形の城壁に沿って42本の柱が立ち並びます。42という数字は、南アラビア文化圏における数的象徴の一つであり、「6本×7列」や「12か月×3.5」といった解釈が考えられます。いずれの解釈においても、宇宙や暦、神聖な周期を表す数と結びつけられ、神殿全体が「宇宙の縮図」であることを示唆しています。柱が配置されたペリスタイル・ホールは、中央の聖域へと続く参道の役割を果たし、参拝者は柱列をくぐり抜けることで、外界から神聖な空間へと徐々に心を切り替えていく構造になっていました。

神殿内の祭壇付近には、清めのための青銅製水盤やアラバスター製の水道管が配置されていました。これらは、儀礼に用いる清浄用水を参拝者や神官に行き渡らせる役割を担い、水が精神的な浄化を象徴する要素として取り入れられていたことがわかります。なかでも、水は聖なる生気を運ぶ媒体とみなされ、祭儀用の水が神々との交信の媒介として重視されました。そのため、水路や水盤は単なる施設ではなく、「神聖空間を維持するための生命の源」であり、建築全体に宗教的な意味を与える重要な要素でした。

バラン神殿(Barrān Temple)でも、数的象徴は建築の隅々に散りばめられています。発掘調査で確認された柱の数は当初12本程度とされていましたが、1988年の再調査でさらに複数本の柱が追加発見され、合計20本以上に達することがわかりました。12や20といった数は、それぞれ季節や方位、神聖な周期と対応すると考えられており、神殿の列柱ホールは「天地(天と地)をつなぐ神聖な空間」として機能していました。柱頭や柱基部には星辰や植物モチーフが彫刻され、月神アルマカへの信仰と自然崇拝が一体となったデザインが採用されています。

さらに神殿の方位設定にも意味が込められており、バラン神殿では東西方向に正面扉が位置していました。これは、東方から昇る太陽と、月神アルマカの満ち欠けする軌道を意識した配置といわれています。参拝者は朝日を背にして神殿に入り、内部の聖域で月光の象徴的光をイメージすることで、時間の循環や生命の再生を表現していたと考えられます。こうした方位の意識は、神殿全体を通して「自然と神々、季節のリズムに身を委ねる」儀礼空間として機能したのです。

また、神殿内部や壁面には数多くの碑文が刻まれており、そこには王権の奉献や神託の記録、神殿建設の由緒などが詳細に記されています。碑文の文言にはしばしば「王は神アルマカに新たな柱を捧げた」「神殿の壁を拡張し、水を引き入れ、人民に安寧をもたらした」といった表現が見られ、水利工学と宗教儀礼が緊密に結びついていたことがうかがえます。つまり、建築そのものが「神聖性を体現するメディア」であり、石や柱の配置はそのまま宗教的な教義や王権の正統性を伝える装置になっていたのです。

こうした複合的な建築技術と宗教的象徴性は、サバ王国が「石造」や「水利」という物質的な要素を通じて、目に見えない神聖な世界を具現化しようとした試みと捉えることができます。マアリブ・ダムの洪水制御機能は「大地を潤す神の恵み」を演出し、アワム神殿やバラン神殿の列柱ホールは「神と人をつなぐ儀式空間」を表現した。こうして、サバ王国の建築は単なる居住や行政の枠を超え、自然・宇宙・神聖を包含する壮麗な芸術作品として機能していたのです。


建築技術と宗教的象徴性を併せて見ることで、古代サバ王国の遺跡群がいかにして環境と信仰を融合させ、王権を正当化し、社会を統合していたのかが鮮明になります。ただの遺構ではなく、一つひとつの柱、石版、運河、そして碑文には確かな思想と技術が込められ、人々はそこに「生命の循環」と「神々への奉仕」の意味を見出していたのです。こうした建築・儀礼空間こそが、サバ文明の真髄を伝える鍵であり、その遺産が現代にまで受け継がれてきた意義を私たちに教えてくれます。

4. 文化的・経済的ネットワークの中心地

古代サバ王国の繁栄を支えたのは、何よりも香料交易を軸とする広範な商業ネットワークでした。とりわけ「乳香(Frankincense)」や「没薬(Myrrh)」といった南アラビア特産の樹脂は、古代世界において最も貴重な交易品とされ、宗教儀礼や薬用、さらには香り文化に欠かせない「液体の黄金」と呼ばれていました。サバ王国は、この香料を陸海にわたる交易ルートの要衝として取りまとめ、その利益を一手に握ることで、マアリブやシルワをはじめとする主要都市を経済・文化の中心地へと変貌させたのです。

まず、香料を運ぶ海上ルートはインド洋を横断し、南アラビア南端にある港湾都市へと至ります。季節風(モンスーン)を巧みに利用した船団は、エチオピア・アクスム王国やインド西岸を結ぶ海路をたどりながら、マアリブへ上陸しました。ここから陸上のキャラバン隊が編成され、艱難辛苦の砂漠を越えてメソポタミアやエジプト、さらには地中海世界へと至る交易路に連なります。このルートは「インセンス・ルート」と呼ばれ、マアリブはその中央ハブとして君臨しました。南アラビアの産地で手に入れた乳香や没薬は、マアリブの市場で取引され、キャラバン隊が担ぎ上げる荷は一度に数百キロにも及んだと伝えられています。

一方で、陸上ルートは山岳地帯や乾燥地帯のオアシスをつなぎます。およそ古代サバ王国中期には、マアリブから北方のサナアを経てダマスクスへ向かう「大交易道」が整備されました。道中の要所にはオアシス集落が点在し、旅商人はそこで補給を行い、情報交換や商談を重ねながら、数週間にわたるキャラバンの旅を続けました。また、マアリブの西方にあるシルワ(Sirwah)は、山岳地帯を縫う交易路の分岐点として早くから発展し、城壁に囲まれた要塞都市として軍事的役割と交易拠点を兼ね備えていました。シルワからは紅海沿岸へ抜ける道がのび、エジプトやアフリカ東岸との文化的・商業的交流が活発に行われるようになります。こうしてサバ王国は、東西・南北の幹線を自在に結びつける「クロスポイント」としての地位を確立し、その繁栄を長く維持し続けたのです。

交易によって生み出された富は、都市空間そのものに反映されました。マアリブ旧市街の市場では、多彩な工芸品や青銅器、宝石、さらには海外から運ばれてきた絹織物や香木が所狭しと並び、昼夜問わず賑わいを見せました。エジプトやメソポタミア、インドからの装飾品や陶器は、住民たちの日常生活に彩りを添え、マアリブが単なる交易の通過点ではなく、文化が交錯する国際都市として機能していたことを示しています。石造りの邸宅や宮殿には、外来様式を取り入れた複雑なモザイクや浮彫りが施され、宗教・芸術・建築が一体となった「サバ風」の都市景観を生み出しました。

さらに、交易活動は宗教的・文化的な交流も同時に促進しました。メソポタミアの天文知識や数学理論、インドの天文学や医学、エジプトの象形文字や宗教概念などが、マアリブやシルワの神殿・宮殿に伝播し、サバの学僧や神官たちはその知見を吸収して自国の儀礼や建築に取り込んでいきました。出土した碑文や文書には、ローマ側の貨客係が香料を求める様子や、アクスム王国と交易文書を交わす記録が残され、サバが単なる商業ハブにとどまらず、学術的・宗教的な情報の交流地でもあったことがうかがえます。

だが、サバ王国の興隆は永遠ではありませんでした。紀元後3世紀以降、ヒムヤル王国が紅海沿岸の主要港を押さえ、海上交易を優勢にすると、サバの陸上ルートを迂回する新たな商流が生まれます。これにより、マアリブを経由しない海路が香料の主要ルートとなりはじめ、一時的にサバ王国の交易支配権は揺らぎました。それでも、マアリブを中心とした都市と交易市は数世紀にわたり独自の文化を維持し続け、インド洋・地中海世界・エチオピア・アラビア半島を結ぶ古代最大級の「文化的・経済的ネットワークの中枢」としての役割を果たし続けたのです。

このように、サバ王国における文化と経済は交易を通じて一体化し、マアリブやシルワはその中枢を担う都市として栄華を極めました。遺跡群から出土する商用容器、交易品目、そして碑文に刻まれた貿易契約の記録は、まさに古代世界の交易ハブにおいて都市がどのように発展し、そこで暮らす人々が多様な文化を享受していたのかを雄弁に物語っています。こうしたネットワークのダイナミズムこそが、サバ王国の遺跡群を「世界文化遺産」としての価値を高める重要な要素なのです。

5. 危機遺産としての現状と保護の課題

古代サバ王国の遺跡群は、その壮麗さゆえに長年にわたり学術的・観光的関心を集めてきました。しかし2015年以降に勃発したイエメン内戦は、マアリブ地域を直撃し、遺跡群を深刻な危機にさらすことになりました。政府軍とフーシ派(Houthi)勢力による激しい戦闘が繰り返され、マアリブ市周辺の道路は封鎖されたり、幾度も制圧の応酬が行われたりしています。こうした軍事行動は空爆や砲撃を伴うため、遺跡そのものが破壊される事例が多発し、世界遺産登録後わずか数年でまさに「危機遺産」としての扱いが現実となってしまいました。

戦闘地域になったことで、考古学者や保護専門家が遺跡に近づくことが困難になり、現地でのモニタリングがほぼ途絶えた状態が続いています。特にマアリブ・ダム周辺の低地は激戦地となり、ダム本体や周辺の運河網にまで被害が及んでいる可能性が高いものの、安全が確保されないため詳細な調査は未だ実施できていません。また、空爆で崩壊した瓦礫に隠れた遺構を確認するには衛星画像やドローン調査が有効ですが、こうした遠隔調査を行っても、得られる情報は断片的であり、地上で直接遺構を目視し、被害状況を正確に把握するにはほど遠い状況です。

さらに、内戦による混乱に乗じて、地元住民や武装勢力による盗掘・不法な出土品の持ち出しも深刻化しています。戦闘地域では警察や考古当局の監視体制が機能せず、略奪品が闇市場を通じて国外に流出する事例が相次ぎました。古い墓地や小規模な神殿跡など、目立たない遺構ほど手つかずの状態から急速に掘り荒らされるケースが増え、結果としてどの遺構がどれだけ失われたのかを特定することすら容易ではありません。こうした不法採掘は、単に遺物を奪うだけでなく、遺構そのものを破壊してしまうため、文化財としての価値どころか、「その場所がかつて何であったか」を後世に伝える手がかりすら奪っていきます。

こうした状況を受け、ユネスコは2023年1月に世界遺産委員会の臨時会合を開催し、マアリブ遺跡群を世界遺産リストと同時に危機遺産リストに登録する緊急措置を講じました。この決定により、遺跡群は国際的な支援を受けやすくなり、衛星モニタリングや遠隔調査を含む緊急保全プログラムの計画段階に移ることが可能となりました。しかし実際には、武力衝突が続く限り、現地での修復や遺跡保存のための長期的なプロジェクトを開始するのは難しいのが現実です。人道支援や基本的なインフラ復旧が優先される中で、文化財保護は後回しにされがちだからです。

一方、国家法に基づく遺跡保護体制も機能不全に陥っています。イエメン政府はかねてよりサバ王国の遺跡を国家遺跡として登録し、違法採掘や無許可開発を禁じる法律を整備してきました。しかし、内戦によって行政機能は大きく後退し、地元の監視機構は縮小もしくは消失。現地の地方行政では、武装勢力との交渉や治安維持に手一杯で、文化財保護へのリソースを割く余裕はほとんどありません。結果として、法的保護の枠組みは「絵に描いた餅」になりつつあり、遺跡が法律的に守られているという実感は地元にも共有されていないのが実態です。

それでも、地元コミュニティには伝統的に遺跡を守ってきた部族社会が存在し、可能な限りの努力を続けています。マアリブ周辺には歴史的に「古聖域(ḥaram)」とみなされる場所があり、そこでは部族ごとに遺跡保護の慣習が連綿と受け継がれてきました。現在も、地域の長老や部族のリーダーたちは遺跡の状況を仲間内で伝え合い、略奪や破壊を未然に防ぐための見張りや巡回を試みています。地元部族によるこうした自発的な保全活動は、国家が機能しない現在だからこそ貴重な「最後の砦」ですが、銃撃戦の最中にそれを続けるのは命懸けであり、人員も限られているため、全遺跡を網羅的に守るのは不可能に近いのが現状です。

国際的な支援体制としては、ユネスコや国際NGOが協力し、戦禍の中にある危機遺産への緊急モニタリング計画を立案しつつあります。遠隔から行う衛星観測による被害判別や、ドローンを活用した高精度撮影データの解析など、テクノロジーを駆使した保存プロジェクトが模索されています。これらの取り組みは、現地に入れない状況でも遺跡の劣化や破壊を早期に検知し、必要な保護措置をリモートで提言できる点で革新的です。しかし、いざ修復作業や遺構保全を実行する段階になると、高度な技術者や資材を戦闘地域へ送らねばならず、安全面の確保が最大のハードルとなります。

また、周辺諸国やアラブ首長国連邦(UAE)、サウジアラビアなどからの資金援助や技術支援の可能性も取り沙汰されています。2024年にはUAEが歴史的技術を研究・共有するための専門家チームをサウジアラビア経由で結成し、サバ王国のダム技術や神殿建築について調査を行う計画が一時的に進められました。しかし、安全保障上の懸念からプロジェクトは中断を余儀なくされ、結局遺跡現地に入ることはかなっていません。このように、国際的な意志と資金があっても、実行段階での安全リスクが高く、現地での実作業が進まないジレンマに陥っているのです。

こうした複合的な課題を乗り越え、古代サバ王国の遺跡群を次世代へと継承するためには、まず地域の政治情勢が安定し、最低限の安全が確保されることが絶対条件です。そのうえで、地元部族や民間の考古学者、国際機関が連携し、遺跡保護のための包括的なガイドラインを策定しなければなりません。具体的には、以下のような段階的アプローチが求められます。

  • 緊急モニタリングと被害評価の継続 衛星画像やドローンを使い、遺跡全体の被害状況を定期的に観測。損壊や盗掘の痕跡を早期に検知し、速報レポートを積み重ねていく。
  • 地元部族との協働による最低限の巡回体制 部族の長老や有志を対象に、遺跡保護の簡易研修を行い、貴重品や碑文の無断持ち出しを防ぐための見張りや通報システムを構築する。
  • 仮設保全措置の実施 修復は困難でも、重要な石柱や碑文の倒壊を防ぐための支保・支柱設置、遺跡に隣接して増設された建築物や道路から遺構を遠ざけるシェード(覆い)の設置など、最低限のハードウェア的保護を行う。
  • 国際支援チームの段階的派遣と技術移転 安全がある程度確保された地域から専門家チームを送り込み、地元技術者へ修復技術や記録方法を教育する。資材の確保と輸送ルート整備も同時並行で進める。
  • 持続可能な遺跡保全の法的・行政的枠組みづくり イエメン政府(暫定または復興後)や地方自治体と協力し、遺跡保護を法的に担保する条例を整備。部族や民間団体が参加できる文化財保護委員会を設置し、透明性ある運営を図る。

これらの措置は、少なくとも「文化遺産の劣化が止まらない」という完全な放棄を免れるために不可欠です。激戦地という困難な環境下であっても、サバ王国の遺跡群には私たち全人類が共有すべき価値が刻まれています。その価値を守るためには、国際社会と地元コミュニティが一丸となり、多層的なアプローチで取り組む必要があるのです。文化財保護への道は決して容易ではありませんが、歴史の証人を次世代へと橋渡しする責務を果たすためには、いま踏み出さねばならない第一歩がここにあります。

総括

マリブ:古代サバ王国の代表的遺跡群|イエメン・マアリブ世界遺産の現状と見どころ
マリブ:古代サバ王国の代表的遺跡群|イエメン・マアリブ世界遺産の現状と見どころ

マアリブ:古代サバ王国の代表的遺跡群は、紀元前1千年紀からイスラム教到来前までのサバ王国の政治的・宗教的・技術的中心地として、アラビア半島南部における古代文明の到達点を示す極めて重要な文化遺産です。ブログ記事を通じて以下のポイントが明確になりました。

  • 古代サバ王国の繁栄
    • 香料交易ルート支配による経済的繁栄と中央集権的神権政治の確立。
    • マアリブ旧市街やシルワなどの都市ネットワークを通じて、サバエア人の高度な社会組織が形成された。
  • 遺構ごとの特色
    • アワム神殿やバラン神殿に代表される宗教建築は、数的象徴や祭壇配置により古代サバの宗教宇宙観を表現している。
    • マアリブ・ダムシステムは洪水制御と灌漑を融合させた高度な水利工学の結晶であり、1000年以上にわたって機能した。
  • 国際的文化交流
    • 乳香・没薬を通じた地中海世界、インド、東アフリカとの商業的結合は、サバ文明を多文化共生のハブに押し上げた。
    • 出土品や碑文にはメソポタミアや地中海世界の影響が認められ、サバ文明の独自性と普遍性が浮き彫りになる。
  • 現状と保護課題
    • 2015年以降のイエメン内戦により、遺跡群は空爆・砲撃・盗掘・都市開発といった多重の脅威にさらされている。
    • 2023年1月のユネスコ緊急登録後、国際的援助や地元部族の努力によって保全活動が試みられているものの、継続的な修復には政治的安定の回復が不可欠である。