静岡県富士宮市で持ち上がった郷土史博物館構想は、「川沿いの埋蔵文化財センターが危ない」という危機感からスタートしました。貴重な古文書や土器 1 万点以上を守るには新しい収蔵庫が必要!!そこに展示機能も付けよう、と話が膨らんだ結果、総額 17〜23 億円の大型計画へ。ところが市民の間では賛否が真っ二つに割れ、市議会も紛糾。いまや市政最大のテーマになっています。
1. 計画の骨格:理念は “人づくりの拠点”
富士宮市が掲げる郷土史博物館の核心は、単なる展示館を越えて 「人を育てる学びのハブ」 になることです。2021 年度にまとめられた基本構想には「富士宮市の歴史・文化を学び 未来を拓く、人づくりの拠点」という旗印が据えられました。ここで言う“人づくり”とは、子どもからシニアまであらゆる世代が郷土の物語に触れ、自分ごととして再解釈し、次のアクションを生み出す循環を指します。構想では特に三つの役割が強調されました。
- 出会い・発見の場 常設展示は市内の遺跡や富士山信仰、戦国時代の古文書などをストーリー仕立てで見せる予定です。例えば「浅間大社と富士講」「水と暮らし」などテーマ別ゾーンを設け、実物資料とデジタル映像を組み合わせて“体験型”の学びを提供。地元小学校の社会科見学を受け入れるだけでなく、放課後の自由研究サポートやワークシート配布も視野に入っています。
- 探究・創造の場 収蔵庫の一角に、市民が自由に資料にアクセスできる“オープン・スタディルーム”を設置予定。考古学クラブの土器拓本作り、高校生のフィールドワーク報告会、移住者向けの「富士宮暮らし講座」など、多様な世代が混ざり合うプログラムを設計します。ここで生まれる議論やアイデアを、行政のまちづくり施策にもフィードバックする―という“循環型ミュージアム”のイメージです。
- まちの顔・回遊のハブ 富士山世界遺産センターや浅間大社と連携し、博物館を起点に市内を巡る“歴史文化ルート”を作る構想があります。たとえば館内でスマホに AR スタンプを集め、浅間大社でコンプリートすると限定グッズがもらえる―といった観光回遊施策を連動させ、文化資源と地域経済を同時に活性化させる狙いです。
これら三つの機能を支えるため、学芸員の常駐はもちろん、デジタルアーカイブやコワーキング併設も検討。運営制度面では、NPO や大学と連携した 「パブリック・プライベート・コミュニティ(PPC)」モデル を取り入れ、予算依存度を下げつつ市民参加を促進する案が議論されています。
しかし、理念先行ゆえの課題も見えます。体験型プログラムは人件費がかさみ、PPC モデルは行政と民間の役割分担が曖昧になると機能しません。今後は 「学びの拠点」という美しい言葉を、具体的な事業計画・収支計画に落とし込めるか が勝負どころ。理念に共感する市民や企業がどれだけ実務フェーズに参画できるかが、17〜23 億円という投資を“未来への種まき”に変えられるかどうかの分水嶺になるでしょう。
2. 予算と施設計画:物価高でコストはうなぎ登り
当初、富士宮市が描いた郷土史博物館の整備費は 17〜22 億円。延床 3,000〜3,500 ㎡級の新館を建て、
- 耐震・免震仕様の収蔵庫(約1,000 ㎡・収蔵容量 1 万点超)
- 常設展示室(約900 ㎡)+企画展示室(約300 ㎡)
- 市民向けワークショップ室/オープンラボ(約200 ㎡)
- ミュージアムショップ&カフェ、バリアフリー動線、太陽光+地中熱の ZEB 仕様
という “フルスペック” を想定していました。ところが2024 年以降の資材高騰と人件費上昇が直撃し、最新試算では 上限 23 億円 に跳ね上がっています。鉄骨 1 t あたりの単価はコロナ前比で約 1.5 倍、空調設備も半導体不足で 20〜30%増と言われ、見積もりを取り直すたびに数字が更新される状況です。
2025 年度予算のリアル
- 基本計画策定費:1,500 万円(※委員会で賛否同数の末ギリギリ可決)
- 財源内訳案(市試算)
- 市債 60%
- 国県補助金 25%(社会教育施設補助など想定)
- 一般財源 15%
市債発行額の増加は将来世代の負担に直結するため、議会では「市民1人あたり約6万円の借金増に相当」との試算が引き合いに出され、反対派の材料になりました。
コスト圧縮 vs. 機能維持――揺れる仕様
見直し案 | 想定削減幅 | 主な論点 |
---|---|---|
既存公共施設の改修活用 | ▲6〜8 億円 | 立地が郊外寄り→来館者数減の懸念 |
駅前用地の再開発ビル内テナント化 | ▲3〜4 億円 | 家賃発生・床面積制限で収蔵庫が不足 |
段階整備(収蔵庫先行、展示棟後期) | キャッシュフロー分散 | 工期長期化で総コスト増の可能性 |
PPP/クラウドファンディング併用 | 資金調達の多様化 | 民間主導にどこまで任せるか調整必須 |
市担当者は「冷温湿度管理やセキュリティーを満たす収蔵庫だけは新設が不可避」と説明し、“箱の規模は削れても箱の質は落とせない” というジレンマを抱えたままです。
ランニングコストも無視できない
試算では開館後の年間運営費を 1.8〜2.2 億円 と想定。うち光熱費が 4 割を占めるため、ZEB 化で 30%削減を狙う計画ですが、初期投資とのトレードオフが残ります。さらに常設スタッフ 15 名体制を維持するには、人件費だけで年 9,000 万円超が必要。「建てた後、誰がどう支えるか」 が次の大きな論点になりそうです。
3. 市民と議会:対立の火種は “優先順位”
郷土史博物館構想がここまで紛糾した最大の理由は、「限られた財源をどこに振り向けるか」という取捨選択の問題に他なりません。3 月11 日の富士宮市議会・予算審査特別委員会は、その葛藤を可視化する場になりました。
委員会では、まず近藤千鶴議員が「博物館建設に数十億円を投じれば、子育て支援や道路インフラの更新が後回しになりかねない」と指摘。続いて佐野和彦議員が「基本構想を白紙に戻し、ゼロベースで再検討せよ」と迫りました。対する推進派は「浸水リスクにさらされた文化財を守るのは行政の責務」と反論。議論は平行線をたどり、ついには博物館関連費1,500 万円を巡る修正動議で賛成・反対が10対10の同数という異例の事態に。最終的には議長裁決で辛うじて可決されましたが、議会の分断がそのまま市民社会の分断を映し出した格好です。
その緊張をさらに押し上げたのが、市民団体による住民投票条例の直接請求でした。4〜5月にかけてわずか1か月弱で5,003筆(法定必要数の2倍超)を集めた署名活動は、計画慎重派の“本気度”を数字で示したと言えるでしょう。街頭では、子育て世代から「まずは既存の児童館や公園を充実させてほしい」、高齢者から「防災拠点の強化が先では」という声が相次ぎ、一方で文化財愛好家は「今守らなければ資料は失われる」と危機感を口にしました。世代・ライフスタイル・価値観の違いが、そのまま賛否の二極化を生んでいる構図です。
行政側は「市民説明会を重ねてきた」と主張しますが、反対派は「説明は聞いたが納得には至っていない」と強調。代表民主制(議会)で進めるべきか、直接民主制(住民投票)で白黒付けるか。手続き論でも対立が深まっています。さらにSNSでは「富士山世界遺産センターが近くにあるのに、似た施設は要らないのでは?」という疑問が拡散し、論点がスピンアウト。市長のリーダーシップと議会の合意形成プロセス、そして市民とのコミュニケーション設計が、いずれも試される状況に陥っています。
総じて言えば、この火種は「文化資産の保護」 vs. 「目に見える暮らしの充実」という価値の競合に起因します。優先順位をどう定めれば市民の納得を得られるのか。それを示す具体的なビジョンと費用対効果の根拠が、今まさに求められているのです。
4. 今後のシナリオ:四つの分岐点 「いつ・だれが・どう決断するか」を可視化する

❶ 住民投票で白紙撤回
- 想定トリガー:6 月以降、直接請求を受けた市長が条例案を議会に提出 → 可決 → 今秋にも住民投票
- 勝ち筋:反対派は「建設費+維持費=生涯コスト30 億円超」を前面に出し、暮らし直結型施策と比較。
- リスク:白紙化後も収蔵庫の浸水問題は残るため、暫定倉庫の賃料や文化財の劣化コストが別途発生。
- 確率感:市民の署名勢いが強く、40 % 前後で現行計画が頓挫する可能性。
❷ 規模縮小・既存施設改修で折り合い
- 想定トリガー:議会が「箱は要るがミニマムで」と修正議決/市長が再選へ向け妥協カードを切る。
- 中身:延床2,000 ㎡級+既存市有施設の活用で初期投資を15 億円以下に圧縮。展示はデジタル比率を高め、収蔵庫性能だけはフルスペック維持。
- メリット:財政負担を抑えつつ文化財保全ニーズに応答。
- 課題:来館者動線が分散し、観光回遊の経済効果が限定的。「求心力か、実用性か」 の再調整が必要。
- 確率感:市長・議会の落としどころとして 35 % 程度。
❸ 駅前立地の再開発ビル内で再スタート
- 想定トリガー:市長が“まちの顔づくり”を最優先し、民間デベロッパーとの再開発協定を締結。
- 中身:駅前複合ビル6〜8階を博物館+コワーキングに充て、市が床を購入または長期リース。カフェ・観光案内所併設で回遊性を向上。
- メリット:公共交通アクセスが劇的に改善し、若年層・観光客を取り込める。
- 課題:収蔵庫面積が不足しがち/高層階搬出入コスト増。家賃 or 購入費で長期的な負担構造が複雑化。
- 確率感:地元商店街の支持が鍵。土地調整のハードル高く 15 % 程度。
❹ 現行案を強行突破(フルスペック新築)
- 想定トリガー:住民投票不成立 or 賛成多数/議会多数派が推進に回る。
- 強み:収蔵・展示・ワークショップをワンストップ提供し、富士山世界遺産センターと連携した“ツイン拠点”戦略が描ける。
- 影響:市債発行増による将来負担・運営費年2億円超が確定。人口減フェーズでの持続性が最大の懸念。
- 確率感:行政の根強い推進意欲はあるが、市民合意形成が不十分。現状では 10 % 程度。
どの分岐を選んでも「文化財保全」と「市民サービスの公平性」の両立が評価軸になります。今後 1 年が “意思決定ウィンドウ”行政は財政シミュレーションの透明化、市民は長期的視点でのコスト・ベネフィット検証が不可欠です。
まとめ:ローカル“ハコモノ”問題は全国区の教材

富士宮市の郷土史博物館構想は、単に一地方都市の「ハコモノ」を巡る賛否にとどまらず、全国の自治体が抱える三つの普遍的課題(①文化財保護と財政負担のバランス、②代表民主制と直接民主制をどう折り合いさせるか、③博物館を“展示箱”から地域課題解決のプラットフォームへどう転換するか)を一挙に可視化したケーススタディである。建設費17〜23億円という価格帯は、中規模市にとって決して小さくないが、浸水リスクや老朽化で失われかねない一次資料の価値をどう数値化し、将来コストと比較するかという論点は、過疎地の資料館や市史編さん室にもそのまま当てはまる。さらに、住民投票請求に至るプロセスは「説明した」だけでは合意が得られないという教訓を突きつけ、SNS時代の“対話型ガバナンス”の難度を浮き彫りにした。
一方で、専門家が提唱する「社会課題を解決する博物館」という視座は、地域包括ケアやDX教育など他分野と連携しながら文化施設を再定義するヒントを提供する。たとえば収蔵庫をオープンラボ化し、学校やNPOが自由研究や地域課題のデータ分析に活用するモデルは、少子化・高齢化が進む地方にこそ応用余地が大きい。実際、PPPやクラウドファンディングで運営費の一部を賄う案も浮上しており、行政依存型から共創型へ舵を切る兆しも見え始めた。
結局のところ、富士宮市がどのシナリオを選ぶにせよ、全国の自治体が注視すべきは「プロセスの透明性」と「ライフサイクル全体での費用対効果」をどう示すかだ。博物館は豪華な“箱”ではなく、人材育成と地域活性のエンジンになり得る。その可能性と限界を、富士宮のケースはリアルタイムで検証させてくれている。だからこそ、このローカルなハコモノ問題は、日本中のまちづくりにとって貴重な教材なのである。