海洋は地球の表面の70%以上を覆い、その底には膨大な歴史的遺産が眠っています。水中考古学は、これらの水中遺跡を対象とする考古学の一分野であり、近年、技術の進歩と国際的な関心の高まりにより急速に発展しています。本稿では、世界各地の水中考古学における最新の研究動向を紹介します。

水中考古学とは:その魅力と特徴

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水中考古学は1960年代に地中海での古代沈没船の発掘研究を契機に誕生した、比較的新しい考古学の分野です。陸上の考古学と比較して、水中考古学の最大の特徴は遺跡の「保存状態の良さ」にあります。海底で砂に埋もれた遺跡は「無酸素状態」となり、海洋生物やバクテリアが繁殖しにくくなるため、木材などの有機物でさえ2〜3千年以上ほぼ完全な状態で保存されることがあります。

国連教育科学文化機関(UNESCO)の試算によれば、全世界の海底には100年以上前に沈み、歴史的な価値があるとされる沈没船が少なく見積もっても300万隻以上存在すると言われています。しかし、これまでに発見・調査された沈没船は数万隻程度、学術調査が行われた遺跡は数百隻程度にとどまっており、水中考古学はまだまだ未開拓の分野といえるでしょう。

最新技術が切り拓く水中考古学の新時代

先端探査技術の活用

水中考古学の発展において、技術革新は極めて重要な役割を果たしています。現在の水中遺跡調査では、以下のような最新技術が活用されています:

  • ROV(遠隔操作型水中機器):高解像度カメラとマニピュレーターアームを搭載し、詳細な画像や映像の撮影が可能
  • ソナーシステム:サイドスキャンソナーによる海底マッピングで、水中の特徴や潜在的な考古学的遺跡を明らかにする
  • 3Dレーザースキャナー:水中構造物や遺物の正確な再現を可能にする
  • マイクロAUV(自律型水中機器):2023年夏にはシチリア海峡で初の大規模な海事考古学調査にマイクロAUVが使用された

これらの技術の発展により、以前は不可能だった水深での調査や、より高精度な遺跡のマッピング・記録が可能になっています。英国クランフィールド大学の研究者らによれば、「水中での作業の課題が、海洋・水中考古学者に急速な技術開発の導入を促してきた」とされています。

革新的な保存処理方法

水中から引き揚げられた遺物、特に木製品の保存処理も大きな課題でした。従来はポリエチレングリコール(PEG)という保存処理剤が用いられてきましたが、処理に長期間(例えばスウェーデンのバーサ号では約30年)を要し、その後も劣化が進むという問題がありました。

日本の研究者たちは、トレハロースという天然糖質を用いた新たな保存処理方法を開発。この方法であれば、従来10年以上かかっていた木製品の保存処理が約2〜3年で済み、また太陽熱集積保存処理システムの開発も進んでいます。これらの革新は、元軍船などの大型遺物の保存処理の展望を大きく変えつつあります。

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世界各地の注目すべき水中考古学プロジェクト

インド:ドワラカでの水中探査

インド考古学調査局(ASI)は2025年2月から3月にかけて、グジャラート州ドワラカ沖での水中探査を実施しています。この調査はASIの水中考古学部門(UAW)によるもので、5人の考古学者(うち3人が女性)からなるチームが、主にゴマティ・クリーク近くの地域で調査を行っています。

ドワラカは古代文学に記載されている重要な場所であり、ヒンドゥー教の神クリシュナに関連する古代遺跡が水中に沈んでいるとされています。今回の調査は2005年から2007年に行われた以前の調査を発展させるもので、「水中文化遺産を探索、記録、研究する」ことを目的としています。

中国:南海1号沈没船

中国の水中考古学研究は1980年代から本格化し、特に南海1号沈没船の調査は画期的なものでした。1989年に日本の水中考古学研究所と共同で予備調査が行われ、2001年から2004年にかけて本格的な調査が実施されました。その結果、陶磁器を主として4,500点の遺物や5,000枚近い北宋を主として南宋を含む銭貨などが引き揚げられています。

日本:鷹島海底遺跡

日本では、長崎県松浦市鷹島南海岸沖の「鷹島海底遺跡」での調査が注目を集めています。この遺跡は1281年の「弘安の役」(蒙古襲来)の際に沈没した元軍船に関連するもので、2011年以降に「鷹島一号沈没船」および「鷹島二号沈没船」が発見されました。

2022年10月には元軍船の「いかり」が引き揚げられ、新たな保存処理技術を用いた保存作業が進められています。この作業は、将来的な沈没船の引き揚げと保存を視野に入れた、水中考古学の未来を占う重要な取り組みとなっています。

米国:大湖地域(Great Lakes)の水中遺跡

米国では、五大湖地域での水中遺跡研究が約20年にわたって続けられています。この研究では、過去1万年にわたる人類の居住の痕跡を持つ4つの異なる遺跡が調査されており、水中考古学技術の発展と先住民コミュニティとの協力関係の深化を示しています。

サイドスキャンソナーやROVなどの技術の急速な進歩と低コスト化により、以前は船舶考古学に比べて注目度の低かった水中遺跡考古学も、現在では認知度が高まっています。

水中考古学の国際的な広がりと教育

Studying sunken ships and their cargo is useful for understanding the culture and daily necessities of people at that time, and for uncovering distribution routes.
沈没船やその積み荷の研究により、当時の人びとの文化や生活必需品を理解したり、流通経路を解き明かしたりするのに有効
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国際会議とネットワーク

水中考古学の分野ではさまざまな国際会議が開催され、研究者間の交流と知識共有が促進されています:

  • IKUWA8:第8回国際水中考古学会議が2025年10月13日〜17日にベルギー・オーステンデで開催予定。テーマは「Telling the Exciting Tales of Our Past(私たちの過去の魅力的な物語を語る)」
  • SHA 2025:歴史・水中考古学会議が2025年1月8日〜11日にニューオーリンズで開催予定。テーマは「Landscapes in Transition: Looking to the Past to Adapt to the Future(遷移する景観:未来への適応のために過去を振り返る)」
  • UT 2025:水中技術シンポジウムが2025年に台北で開催予定

教育と人材育成

世界各地で水中考古学の教育・訓練プログラムも拡充されています:

  • バルカン・ヘリテージ・フィールドスクール:2025年5月24日〜6月14日にブルガリアで水中考古学の包括的な入門と訓練を提供
  • モンテネグロでのトレーニングプログラム:2025年4月7日〜11日に水中考古学と水中文化遺産のデジタル化に関する5日間のトレーニングを実施予定

特に注目すべきは、水中考古学における女性研究者の活躍です。インドASIの水中探査チームには多数の女性考古学者が参加しており、「水中調査に積極的に参加する考古学者の最多数」として評価されています。

水中文化遺産保護の国際的取り組み

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「国連海洋科学の10年」と水中文化遺産

2021年に始まった「国連海洋科学の10年」の枠組みの中で、水中文化遺産に関するプロジェクトも進行しています。「海洋科学の10年遺産ネットワーク」が主催する「文化遺産枠組プログラム」の一つとして、「現地住民、伝統的生態学的知識、気候変動:象徴的な水中文化遺産としての石干見(いしひび)」プロジェクトが実施されています。

このプロジェクトには、東京海洋大学を主催校として、筑紫女学園大学、フィリピン大学、韓国の木浦大学校、グアム大学、ユネスコの「水中文化遺産保護条約」締約国ポーランドのワルシャワ大学、アイルランドのトリニティ・カレッジ、南アフリカのネルソン・マンデラ大学が参加しています。

水中考古学の課題と展望

水中考古学は大きな可能性を秘めていますが、いくつかの課題も抱えています。

技術的・方法論的課題

水中考古学の発掘研究には「時間の制約」という、陸上の考古学にはない難しさがあります。遺跡を丁寧に発掘し、情報を詳細に記録するには十分な時間が必要ですが、水中という環境は潜水時間の制限などの制約をもたらします。

また、水中遺跡は文献資料や伝承からその存在が推測されても、実際に発見することは極めて困難です。広範囲に広がる遺跡の場合、単純な潜水調査では不十分で、科学的探査方法の導入が必要とされています。

保存と活用の課題

沈没船や水中遺跡は、見つけるだけでなく、その後の保存や活用も大きな課題です。水中から引き揚げられた遺物は、適切な保存処理を施さないと劣化が進むため、保存科学との連携が重要です。

また、「水中文化遺産保護条約」には沈没船という文言は登場しないにもかかわらず、水中文化遺産といえば沈没船という認識が一般的であり、石干見のような伝統的漁具などの保護が進まない一因となっています。

水中考古学の未来へ向けて

The target is ruins in the special environment of underwater, and they are often in good condition.
水中という特殊な環境下にある遺跡が対象で、保存状態が良いことが多い

京都橘大学では2025年1月に、水中考古学者の山舩晃太郎氏と文化庁の芝康次郎氏による学術講演会「船舶考古学と水中遺跡保護の未来について」が開催されました。日本における水中遺跡の調査研究は、地上遺跡の調査研究の実績に比べて圧倒的に少ない状況にあり、今後の発展が期待されています。

Newsweek Japanの記事によれば、水中研究の多くは沈没船だけでなく「沈没景観」も対象としており、氷河期後のような水位上昇によって水中に沈んだ居住地全体を調査することで、過去の人々の生活や文化に関する貴重な情報が得られるとされています。